わが板新地

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わが北新地の歴史

中村鴈治郎

■ 初代中村鴈治郎が舞った堂島座 明治44年(1911)
堂島上二丁目に堂島座ができ、中村鴈治郎らの一座によって、盛大なこけら落とし興行がおこなわれた。その後、建物は大正 3年に神戸に移された。堂島座の場所は薬師堂があった。
■ 231年ぶりの復活、坂田藤十郎 平成17年(2005)
2005年に人間国宝の三代目中村鴈治郎が坂田藤十郎の大名跡を継ぐ。江戸時代中期、1774年に亡くなった三代目坂田藤十郎から実に231年ぶりの 四代目復活である。三代目鴈治郎は上方歌舞伎再興ををめざして1982年、 近松門左衛門にちなんだ「近松座」を旗揚げし、上方和事の発展に努めてきた が、初代坂田藤十郎はその和事の創始者といわれている。
※ 和事/歌舞伎の演技・演出の一つ。濡れ事・やつし・恋愛・情痴を演ずるも ので、江戸の荒事に対し上方の伝統的な芸。
※ 四代目坂田藤十郎の屋号は山城屋、紋所は星梅鉢(ほしうめばち)の予定。
※ 初代坂田藤十郎/( 1647~1709)。近松門左衛門(1653~1709)と組んで数多くノ歌舞伎脚本を上演した。写 実的な芸風で、和事の名手として元禄歌 舞伎を代表する役者。大坂新町の遊女夕霧の情夫藤屋伊左衛門に扮し生涯の当たり役となった。

近松門左衛門

■ 大坂が生んだ日本のシェークスピア近松
近松門左衛門は、本名を杉森信盛といい、父親は越前福井藩の浪人であったとされる。 10代の頃は京都に住み、一時期は近江の近松寺に遊学したことがあるといわれるぐらいで、出生地も幼少年時代の足取りもよく分かっていないミステリアスな人物。20代にはすでに作家活動を始めていたといわれ、坂田藤十郎とのために歌舞伎脚本を書いた。その後50歳になる頃から、大坂の竹本義太夫と組んで人形浄瑠璃のための作品を書くようになった。「曾根崎心中」「恋飛脚大和往来」「心中天網島」の浄瑠璃作品は近松三大心中物といわれる。東洋のシェークスピアと呼ばれる。
■ 高田屋嘉兵衛の座右の書は近松の曽根崎心中であった。
江戸後期の廻船業者 高田屋嘉兵衛は、ロシアと外交交渉するなど大きな功績を残したが、その嘉兵衛が座右に置いていたのが浄瑠璃本であった。カムチャッカへ渡った際に持って行った荷物の中に近松門左衛門の浄瑠璃本「曽根崎心中」が入っていた。大阪の浄瑠璃が当時の日本の標準語のようなものだった。

■ お初と徳兵衛の「曽根崎心中」 元禄16年(1703)初演
近松門左衛門は、1703年、露天神社境内で起った心中事件を取材し、初めての世話物浄瑠璃として「曽根崎心中」を書き下ろし、事件からわずか1ヶ月後には道頓堀の竹本座で初演された。主人公は、京都の島原から流れてきて北の新地天満屋の抱え女郎となったお初と内本町の醤油屋の手代徳兵衛。
■ 北の新地が舞台となった近松の心中物
近松門左衛が描いた世話物には、北の新地を舞台にしたものが多い。「曽根崎心中」「心中天網島」のほか、天満屋のお島と長柄の百姓市郎右衛門の心中事件を取材した「心中二枚絵草子」、そして「心中刃は氷の朔日」等などがある。

■ 近松をライバルにした紀海音
浄瑠璃作者紀海音(1663~1742)は「難波橋心中」「梅田心中」などを発表。海音の豊竹座は近松門左衛門の竹本座と作を競った。「梅田心中」は、新地の遊女お高とほう間の弥市との情死事件を取材した物語。

古代北新地

■ 難波(なにわ)の守護、堂島薬師堂
推古天皇の元年( 593)、難波の地に四天王寺が創建された時、淀川尻の八十島の一を選んで薬師堂を建立して難波の守護とした。その後、僧行基は難波の砂州に船着場を築き、薬師堂に伽藍を作り、庶民の信仰を集めた。
■ 堂島新地の誕生 元禄元年(1688)
河村瑞軒らは、淀川の治水事業の一つとして、 1684~85年にかけて堂島川と蜆川(曽根崎川)の改修を行った。その結果 、1688年に十カ町に町割りされた堂島新地が誕生した。堂島新地には大名屋敷をはじめ、茶屋、風呂屋、芝居小屋等が許可され、新地の繁栄がはかられた。
■ 町人の処世を説いた井原西鶴 元禄元年(1688)
井原西鶴(1642-93)は、1688年、浮世草子「日本永代蔵」を発刊。「波風静に神通 丸」では、米市が堂島に移る前の北浜の米市を描く。
■ 堂島に淀屋橋南詰から米市が移設 元禄10年(1697)
米市の移設で仲買人や両替屋も次々と堂島に店をかまえた。
■ 七橋が架かっていた蜆川
元禄年間( 1688~1704)に編集された「地方役手鑑」によると、蜆川には7つの橋の寸法が明記されていた。それによると、いずれも十五間(約30m)前後の橋長で、幅員が二間(約4m)であったとある。天明の頃(1830年頃)までには3橋が増え、蜆川の橋は10橋となった。
■ 蜆川の名の由来
古くから曽根崎川を蜆川と俗称されていた。この川の名は堂島蜆というしじみがとれたからとか、かつては 15~17間(約30m)あった川幅が、明和3年(1766)からの浚渫工事で、8間(約15m)に縮められてついた「ちぢみ川」がなまって生まれたとも言われている。また、摂津名所図会には川幅が日時のたつにつれて縮んだので「ちぢみ川」がなまって生まれたともある。
■ 曽根崎新地の誕生 宝永5年(1708)
宝永年間( 1704~1710)に蜆川北岸が開発され、一丁目~三丁目の町割りが1708年に行われた。多くの茶屋が許可されたことで、遊楽の地である北の新地の中心は、蜆川北岸の曽根崎新地へと移っていった。それとともに堂島は米相場の中心となり、蔵屋敷や米仲買商、両替屋などの商家が建ち並ぶ商業地区に変遷した。
■ 堂島米相場会所が開設 享保15年(1730)
米市が公認され、米価調節のため、米の先物取引を公認した堂島米相場会所が開設された。これに伴って堂島新地は天下の台所といわれた米市場を中心にした商業地区へ、曽根崎新地は堂島の米商人や蔵屋敷の武家の接待や情報交換の場へと姿を変えていった。
■ 茶屋株五八軒と呼ばれた北の新地
北新地の全盛期には茶屋株五八軒と呼ばれ、「摂津名所図会」によれば、『夕暮れより両側には軒の懸行燈輝かして紅顔雪肌の輩往来して、楼上には琴曲糸弦の音麗しく芝居あり、的場あり、西の町端を編笠茶屋と云ふて江鮒を製して雀鮓と名付けて名産とす』と当時の北新地の様子が描かれている。
■ 上田秋成、北新地で生まれる 享保19年(1734)
「雨月物語」、「春雨物語」の作者で、国学者でもある上田秋成(うえだあきなり)は、曽根崎新地で生まれた
■ 曽根崎五人斬りを劇化した五大力恋緘
初世並木五瓶は、助成橋の北詰めで、元文 2年(1737)に起った5人斬り事件を取材し、寛政7年(1795)「五大力恋緘」を発表した。
■ 淀屋辰五郎らの情報交換の場、北の新地
米の仲買人や商人たちの情報交換の場となったのが北の新地であった。淀屋辰五郎は元禄頃の豪商、生没年は不詳。
■ 北の新地と呼ばれた曽根崎新地 天保13年(1842)
大阪の各町を説明した「大坂町鑑」には、曽根崎新地壱丁目を「北のしん地といふ茶屋町也」とある。
■ 日本のビール発祥の地 明治5年(1872)
渋谷庄三郎がアメリカ人フルストの指導を受け、北新地で生産を始めたのが「日本初の「渋谷ビール」。
■ 堂島米穀取引所が設立 明治9年(1876)
堂島米市場、堂島米相場会所に代わって、堂島(大阪)米穀取引所が開設。
■ 「濱」の紋がついた羽織
堂島は米取引からはじまって、商品、金融、証券の先物取引のさきがけとして世界に影響を与えるまでになった。当時、この紋(「濱」当時はコメ辺)がついた羽織は権威の象徴でもあった。

■ 堂島下駄
堂島の米仲買が用いたところから呼ばれる。
■ 浪花踊りがおこなわれた演舞場 明治15年(1882)
曽根崎新地一丁目にあった演舞場では、京都の都踊りをまねた浪花踊りが行なわれた。その最初は明治 15年で、大火などのために幾度か中絶し、演舞場も大正4年、曽根崎新地三丁目に建て替えられた。その後、太平洋戦争のため焼失したが、昭和29年に復活した。
■ 一昼夜燃え続けた北の大火 明治 42年(1909)
空心町(現、東天満)から発生。火は東北の風にあおられて北新地をおおい、現在の福島区の一部にも達した。北新地は壊滅状態と化し、焼け落ちたがれきによって蜆川の上流部は埋め立てられた。
■ お茶やが軒を連ねた北の新地 大正7年(1918)
北の大火の艱難を経て、大正から昭和にかけての北新地は表町の両側すべてがお茶屋であった。大正7年当時、北新地は芸妓置屋 11軒、貸席153軒、芸妓825人であった。

■ ベルリンフィルを指揮した貴志康一の曲に北新地が登場
貴志康一( 1909-1937)は吹田市でうまれ、幼少期を大阪桜ノ宮で過ごした後、芦屋に移り甲南小学校、甲南中学校、甲南高校に通 った。16歳で独奏会大阪フィル入団。17歳の時に甲南高校を中退し、スイス国立ジュネーブ音楽院およびベルリン高等音楽院に留学、20歳の時にストラディバリウスを携えて帰国した。28歳の若さで急逝するまで作曲家、指揮者としてヨーロッパや日本を舞台に華々しく活躍した。25歳の時にベルリンフィルハーモニーを指揮した。作詞作曲した浪花民謡「かごかき」に北新地が登場、クラシックでは唯一。ほかに「竹取物語」「赤いかんざし」「仏陀」など。

近代北新地

■ JR東西線の開通で北新地駅開業・平成9年(1997)
平成9年3月8日、着工から8年の歳月を費やして完成京橋、尼崎間に7つの駅が設けられた。そして開通記念で「蜆川夕遊祭」が盛大に催さた。
■ ようこそ北新地パーティを開催・平成14年(2002)継続事業となる。1000名を越える来場者で北新地ならではの催物となり、毎年開催決定。
■平成9年から始まった本通り美装化工事完成、文化銘板「わが北新地」設置 平成15年(2003) 新地本通り完成記者発表後、関電地上機器の上に文化銘板10基設置、披露記者発表と除幕式開催。

■ 「北新地NICOS VISAカード」誕生
協会と日本信販と会員の3者契約による業界初の地域限定カードで、選ばれたお客様のエグゼクティブカードが誕生。現在カード会社の合併により三菱UFJニコス株式会社との契約となりVISA/Masterカード取扱加盟店が増える。
■ 「北新地おもてなしmap」完成・平成16年(2004)
国際ロータリー大阪大会で、会員店の「北新地おもてなしmap」海外版が出来、海外のロータリアンに配布される。その後、大塚製薬(株)の協賛で日本版が制作され、有名ホテルへ配布される。
■ 堂島薬師堂「お水汲み祭り」開催、今年より継続事業となる。
水の都大阪の活性化を願い経済界と北新地が奈良薬師寺のご協力を得て、北の新しいお祭りとして地域の賑わいを呼び起こす事業で、これから毎年開催される。後に文化庁から表彰される。
■「なにわ八百八橋」橋洗い・打ち水大作戦等大阪活性化事業へ参加・平成17年(2005)
大阪人の先輩が造った橋を洗う事で先輩たちを尊敬する心だけで無く行動で示す「中之島ガーデンブリッジでの橋洗い」と御堂筋での「ヒートアイランド地球温暖化防止事業」に北新地まちづくり委員会が活躍す。
■協会青年部発足(KRK青年部)平成18年(2006)
*方針と目的・・・・・「次世代の中核である青年部が、愛する北新地を守る為には!」
部員の資格は個人で、若い経営者は勿論の事、勤めている方で、マネージャー・チィーママ・チィーフバーテンダー・シェフ・料理人等青年部の方針と目的に賛同される方で発足した。
■大塚商会Solution Vol 80号(2006年10月号)に協会IT化の推進記事掲載される。
■情報誌創刊号発行さる
わが北新地の会報紙は、昭和40年(1965)に発刊され、424号に達し、この度、今迄の概念をはずし地域の発展に役立つPR誌にして、行政、司法の通達や協力、又北新地の情報や催事の報道を掲載し、協会会員のお店情報等を収集し、コミュニティー誌を目指し、リニューアルされました。
■ Suntory 「オーナーズカスク北新地ボトル」の選定に山﨑蒸留所とビール工場訪問平成19年(2007年)